※この記事は、映画『トイストーリー4』の結末をゴリゴリにネタバレしていますので、ご注意ください。「これから映画を観る!」という方は、読まないでください🙏
最近、諸事情により、映画『トイストーリー4』を映画館で2回も観ました。
最初に、この映画の感想を言うと、
「厳しい現実を教えてくれる、最高にすばらしい映画」
でした。
絶対に観た方が良いです。
(と言いつつ、しこたまネタバレぶちかますワタピ😉)
この映画で、私は、
- メッセージ1「物事の価値を決めるのは、求めている人がいるかどうか」
- メッセージ2「内なる声にウソをつくな」
- メッセージ3「自分を必要とする相手と出会うまで、自ら動け」
という3つの厳しいメッセージを、ビンビンに感じました。
「映画は観ないから、とりあえず、あらすじを教えてちょーよ」
というあなたのために、私が世界一雑に、あらすじを説明します。
トイストーリー4のあらすじと結末(すべてネタバレしています。言ったからな!)
- 持ち主のボニー(女の子)、ウッディを雑に扱う。→ウッディしょぼくれる。
- ボニー、幼稚園のオリエンテーションが不安で泣く。
- 心配になったウッディ、勝手に付いていく。
- ボニー、図工の時間に、先割れスプーンのゴミでフォーキーを作り上げる。
- ボニー、フォーキーをめっちゃ大事にする。
- フォーキー「僕はおもちゃなんかじゃない!ゴミなんだ!」→フォーキー逃亡。
- ウッディ「君はゴミなんかじゃない、ボニーにとっては、俺よりも大切な存在なんだ」
- フォーキー「そうか!じゃあ、ボニーのところに戻らなきゃ!」
- ボニーの元へ戻る道中、ウッディの音声機を奪うために、ギャビーギャビー(女の子の人形)
- ウッディとフォーキーをさらう。ギャビーギャビーがウッディの音声機を奪おうとした理由→「私が子供に愛されないのは、音声機が壊れているからよ!」
- ウッディだけ助かる。フォーキー捕まる。
- ウッディ、フォーキーを救出しに行く。→救出、失敗
- ボー(ウッディの味方の女の子の人形、今は持ち主がいない)「やるだけのことはやったわ。もう諦めなさい。」
- ウッディ「俺には、これしかないんだ!!これは忠誠心なんだ!迷子の君には分からないだろうけどね!!」
- ボー「好きにしなさい。迷子はあなたの方でしょ。」
- ウッディ、一人で救出しに行く。
- ギャビーギャビー(女の子の人形)、ウッディにお願いする。「私もあなたと同じように、子供に愛されてみたいの。だから、あなたの音声機が欲しいの。」
- ウッディ、仕方なく、ギャビーギャビーに自分の音声機をあげる。
- 音声機が直ったギャビーギャビー、念願の女の子に出会う。→「これで、私も愛されるわ!夢が叶う!」
- 女の子、ギャビギャビーを見て一言。「いらない」
- ギャビーギャビー、絶望の淵に突き落とされる。
- ウッディ「他にも子供はいるんだ。ボニーが君を必要としているかもしれないよ。」
- ギャビーギャビー「でも、また嫌われるのが怖いの。」
- ウッディ、フォーキーとギャビーギャビーを連れて、ボニーの元へ戻る。
- ボニーの元へ戻る道中、ギャビーギャビー、自分を愛してくれる女の子と出会う。→ギャビーギャビーHAPPY
- ウッディー、ボニーの元へ戻るため、ボー(ウッディの味方の女の子の人形)たちに別れを告げる。
- バズ「内なる声を聴け」
- ウッディ、ボー(ウッディの味方の女の子の人形)と一緒にいるために、ボニーの元へ戻らない。
- ウッディ、バズとお別れを告げる。
- END
目次
メッセージ1「物事の価値を決めるのは、求めている人がいるかどうか」
まず、この『トイストーリー4』を貫いているメインメッセージは、
「物事の価値を決めるのは、求めている人がいるかどうか」
です。
この映画のメインは
- ウッディ →ボニー(持ち主の女の子)に雑に扱われる
- フォーキー(ゴミでできたおもちゃ)→ボニー(持ち主の女の子)に大事にされる
の2人ですが、フォーキーが本当のゴミでできているのは、偶然ではないでしょう。
この映画が伝えたかったのは、
「たとえそれが本当にゴミでできていたとしても、求めている人がいるなら、それは価値があるもの」
ということでしょう。
私はこの映画を観て、武井壮の、
物事の価値を生むのは、人が求める数
という話を思い出しました。
15:28部分〜
「物事って、何が価値を生むか?」
って言ったら、やっぱりこれなんですよね。
「人が求める数だけ」
なんですよ。
スポーツの僕のクオリティって、自分で言うのもなんですけど、ある程度高いものだと思うんです。
各分野に行ったら、日本一を取れる能力もありましたし、クオリティ自体はすごく高いものがあるんですけども、価値がない。
なぜなら、
「それを求めている人の数が、すごく少なかったから」
なんですね。
例えば、
「世界で『最高品質』の商品を1個作りました。『明らかに、地球上で最高の品質のもの」なんです。だけれども、誰にも告知してないので、1つも売れてません。」
これって、社会的価値ありますか?
・・・ないですよね。
でも、
「世界で『10番目』ぐらいのものなんだけれども、世界中で使っていて、世界中の人が欲しがってて、1年で10億個売れます。」
これって、すごい経済価値生みますよね。
それが、たぶん「社会的な価値」だと思うんですね。
(中略)
僕、さっきも言いましたけど、エンターテイナーの方に出会って、その人たちが出会う人、出会う人、笑顔にしてくのを見て、
「こういうことだな」
と。
「人が求めているって、こういうことなんじゃないかな」
と思って、そこから「自分が成功したい」と思ってやってただけのスポーツを変えてみたんです。
彼らみたいに、
「世の中の人が、楽しみに見てくれる人になれないかな」
と思い出したんですよね。
そこから、いろんなことが変わってきまして、僕は、本当に、
「自分がチャンピオンになりたい」
「成功したい」
「お金持ちになりたい」
「強くなりたい」という想いでトレーニングして、試合に出てましたけど、それも「自分のため」だったんですね。
自分が有名になるため。そうじゃない。
この人たちの価値は、自分が芸能人としていることじゃなくて、いることで、周りの人が笑顔になったり、元気になったりしていることが、この人の価値だと思ったわけですよ。
この人たちのライブだったりを観ていくうちに。
人の価値・商品の価値というのは、その「クオリティ」じゃないんですよね。
スポーツのクオリティでもなければ、商品のクオリティでもなければ、トークの面白さだけでもないんですよ。
「それを見て喜んでくれる人の数だ」
ということに、30歳ぐらいのときに気づいて、その活動を始めたんですね。
でも、僕には、人を楽しませるトークの術も何もなかったんですよ。
だから、その日から家を借りるのをやめて、西麻布に行き、芸人さんたちが集まるバーに行って、
- 洋服
- カバン
に全部ICレコーダーを仕込んで、みなさんがトークして、
「ワーッ!」
って、
「笑いが起きているところを、全部編集してつないだCD」を車の中で流して、1人でずっと聴いてたんですよ。
・・・8年かかったですね。
8年ずっと、
- おしゃべりの声の感じ
- 間
を全部マネして、一言違わずしゃべれるようになったりしたんですね。
(中略)
僕が今持ってる価値とか、僕が頂いている収入とか、そんなものなんてのは、
「自分のクオリティ」
で手に入れたものではなくて、明らかに、
「僕にみなさんが付けてくれているもの」
だと思うんですね。
どんな仕事しても、どんな趣味持っても、どんな希望持ってて、どんな夢があっても、それを誰かが必要としていなかったら、僕は「価値がない」と思います。
それは、30歳ぐらいまでに、
「日本一のクオリティを保っているにも関わらず、1円も稼げなかった僕」
が一番感じたことであり、
「真実じゃないかな」
と思うんですね。
トイストーリー4における、
- ウッディ →ボニー(持ち主の女の子)に雑に扱われる
- フォーキー(ゴミでできたおもちゃ)→ボニー(持ち主の女の子)に大事にされる
の対比は、
人の価値・商品の価値というのは、その「クオリティ」じゃない。それを見て喜んでくれる人の数だ。
ということを言いたかったのでしょう。
ゴミで作られたフォーキーであっても「必要としている人」がいるのであれば「価値がある」ということですね。
逆に、ウッディのように、たとえ状態の良い高級品のおもちゃであっても、「必要としている人」がいないのであれば「価値がない」ということです。
クオリティで言えば、どう考えてもフォーキーよりもウッディの方が良いはずです。
つまり、大事なのは「クオリティ」ではないのです。
「それを見て喜んでくれる人がいるかどうか」
なのです。
「私が女の子に愛されないのは、音声発生器がないからだ」(=自分が選ばれないのは、自分のおもちゃとしてのクオリティが低いからだ)
と思い込んでいたギャビーギャビーが、ウッディから音声発生器をゆずり受けたにも関わらず、女の子に『こんなのいらない』と言われてしまったシーンも、
人の価値・商品の価値というのは、その「クオリティ」じゃない。それを見て喜んでくれる人の数だ。
ということを伝えています。
また、この映画では、
「忠誠心と執着心の違いは何なのか?」
についても問いかけています。
フォーキーを助けることに躍起になるウッディに対して、ボー(ウッディの味方の女の子の人形、今は持ち主がいない)が、
「やるだけのことはやったわ。もう諦めなさい。」
と言うシーンがあります。
そして、それに対して、ウッディは、
「俺には、これしかないんだ!!これは忠誠心なんだ!迷子の君には分からないだろうけどね!!」
と答えます。
そんなウッディに、ボーは、
「好きにしなさい。迷子はあなたの方でしょ。」
と答えるのですが、このシーンが表しているのは、
「忠誠心と執着心の違いは何なのか?」
です。
そして、それはおそらく、
「求めている人がいるかどうか」
なのでしょう。
つまり、ウッディを突き動かしていたのは、
「忠誠心ではなく、執着心」
だったのです。
「ボニーのためになりたい。でも、自分は必要とされていない」
「だから、フォーキーをサポートするしかない。フォーキーをサポートすることにしか、自分の存在意義はない」
そう思っていたからこそ、フォーキーを救出できなかったときに、
「俺には、これしかないんだ!!」(=フォーキーを助けることでしか、自分の存在意義を示せないんだ!!)
と、ボーに強く言ってしまったわけです。
切ないですね。苦笑
この映画では、
「どんなに貢献しても、どんなに愛していても、どんなに想っていても、それを相手が必要としていないなら、それは『忠誠心』ではないく、単なる『執着心』だ。」
ということを伝えたかったのでしょう。
ここもまた、武井壮の
僕は、本当に、
「自分がチャンピオンになりたい」
「成功したい」
「お金持ちになりたい」
「強くなりたい」という想いでトレーニングして、試合に出てましたけど、それも「自分のため」だったんですね。
の話とつながってきます。
ウッディは、
「ボニーのためになりたい」
「ボニーに対して貢献したい」
と思ってやっていたかもしれませんが、それは本当のところは、
「自分のため」
だったわけです。
忠誠心ではなく、
「自分がもう一度ボニーに愛されたいから、フォーキーを助ける」
ということだったのです。
ウッディの、
「俺にはこれしかないんだ!」
というセリフに対して、ボー(お姫様のおもちゃ、ヒロイン役)が、
「迷子なのは、あなたの方なんじゃないの?」
と言ったシーンは、
「ボニーのため、ボニーのためって言ってるけど、本当のところは自分のためなんじゃないの?自分を見失っているのはどっちなの?」
と言っているように聞こえました。
メッセージ2「内なる声にウソをつくな」
そして、この映画がもう一つ、発しているメッセージは、
「内なる声にウソをつくな」
です。
劇中の序盤から、何度も、
「内なる声を聴け」(Listen to your inner voice.)
というセリフが登場しますが、これが最後のシーンの伏線となっています。
バズがウッディに対して、
「なぜそんなにフォーキーを助けるんだ?」
と問いかけた際、ウッディは、
「なぜか分からないけど、自分の内なる声がそうしろって言ってるんだ」
と答えます。
そして、ラストシーンで、ウッディが、
- 自分を必要としていないボニーの元へ戻る(バズたちと一緒にいる)
- 自分を必要としてくれる子供と出会うための旅に出る(バズと別れて、ボーたちと共に旅をする)
の2択を迫られた際、今度は逆に、バズがウッディに、
「内なる声を聴け」(Listen to your inner voice.)
と問いかけます。
そして、ウッディは、
- 自分を必要としてくれる子供と出会うための旅に出る(バズと別れて、ボーたちと共に旅をする)
という方を選んだわけですね。
メッセージ3「自分を必要とする相手と出会うまで、自ら動け」
この映画のメインメッセージは、
「物事の価値を決めるのは、求めている人がいるかどうか」
「たとえそれがゴミでできていたとしても、求めている人がいるなら、それは価値があるもの」
ですが、それは裏を返せば、
「求めている人がいないなら、たとえクオリティが高かったとしても、価値がない」
という残酷なメッセージにも聞こえます。
しかし、その辺は、さすがトイストーリー。
そんな残酷なメッセージでは、終わっていません。笑
「物事の価値を決めるのは、求めている人がいるかどうか」
「たとえそれがゴミでできていたとしても、求めている人がいるなら、それは価値があるもの」
というメッセージを発していると同時に、この映画は、
「自分を必要とする相手と出会うまで、自ら動け」
というメッセージを発しています。
音声機を直したにも関わらず、女の子に「いらない」と言われて、絶望していたギャビーギャビーは、自ら動いたことで、
「自分を愛してくれる女の子」
に出会うことができました。
一度女の子に捨てられてしまったギャビーギャビーが、その場でうじうじせずに、自ら動いたからこそ、
「自分を本当に必要としてくれる女の子」
に出会うことができたのです。
つまり、トイストーリー4の裏のメッセージは、
「もし目の前の人があなたを必要としていないなら、あなたを必要としてくれる人に出会うまで、自分の足で動け」
ということでしょう。
だからこそ、
「どんなに貢献しても、一向にボニーに愛されないウッディ」
も最終的にボニーの元から離れ、
「自分を必要としてくれる相手を探すための旅」
へ出発したわけです。
「ウッディとバズの別れ」
というのは、表層のシーンでしかなく、あのラストシーンの本当の意味は、
「ウッディが、自分を本当に必要としてくれる子供に出会うための旅立ち」
です。
つまり、
「自分を必要とする相手と出会うまで、自ら動け」
というメッセージです。
これは、昔に紳助が『行列のできる法律相談所』で語っていた、
「みんな偽物やねんから、ジッとしてたらアカン」
という話と似ていますね。
みんな「偽物」やで。
我々なんか、みなさんと何も変わりませんよ。
「特殊な才能があって、天才や」
とか、絶対ないですよ。
「そうあるように、どうやって見せるか?」
だけなんですよね。
この間、上地にもよう言うてたんですよ。ヘキサゴンのメンバーに。
みんな「ルアー」やで。
「本物のエサ」ではない。
みんな「偽物」や。
ジッとしてたら、お前らは誰も食いつかへんかった。
だから、俺たち先輩とか、いろんな人が、
「このルアーをいかに本物のように動かしたり、素敵に動かすのか」
すると、偽物のルアーでも、素敵に動いた瞬間に、
『パクっ!!』
って食いついて、売れんねやと。
だから、みんな偽物やねんから、ジッとしてたらアカン。
何かを始めて、動く。
ということで、以上、映画『トイストーリー4』の感想でございました。